2014年10月

2014年10月14日

もし、私の作品の演出をお願いするとしたら、宮城聡だろうと思った。音楽に乗せられて語られる台詞。そして二人一役の演出は、詞の役者と肉体の役者のエネルギーによって奏でられる。美術は木津潤平氏だ。もし、藤戸を彼が演出したら…そんなイメージが膨らんだ。私も古典を私の場合は日本の古典に拘っているが、現代演劇として構築し直すという作業をしている。自分の世界を作っているという自負はある。邦楽の音楽世界と演劇が融合された空間だ。そして、古典もそのままではなく新作として書き直している。だが、あらたな様式を手に入れるのは容易ではない。宮城氏は見事だ。役者の演じる様式に、私は悩みつづけているからだ。う〜む。

horikawa_g at 18:04コメント(0)トラックバック(0) 
 舞台美術の木津潤平の世界に圧倒された。この作品の世界観が見事に描かれている。演出の三浦基は、登場人物をその世界の点描のように配置する。これは現代の歌舞伎だと思った。歌舞伎には絵面といわれる型がある。まさしく、これは動く絵の世界である。「光のない。」という作品の意図は、視覚と聴覚(いわゆる台詞ではない)、つまり絵と音の中に認識させられるのだ。むろん、歌舞伎は台詞劇ではあるが、あの歌舞伎独特の台詞回しは、やはり歌舞伎のものだ。「光のない。」が産み出す独自性は歌舞伎のように他を圧する。少し、残念に思うのは、舞台美術に演劇そのものが付随しているように感じてしまうことだろう。いや、演出意図としてそうしたのかもしれない。この作品においては、物語性というよりも感受される感覚が重要なことだからだ。
 三浦基氏は劇場についてプログラムで言及しているが、まったく同感だ。私が、歌舞伎の、前進座劇場を惜しむ気持ちが強かったのもその為だ。文楽も実のところ、演芸場でやる方が相応しいと思っている。集客ができないから小さい劇場でやるのではない。その芸能に見合った劇場というものがあるのだ。私の場合、小劇場も好きだが生の演奏に拘っているので中劇場の規模が最適だと思っている。しかし残念なことに、劇場運営もこの規模では採算が難しい。中劇場が次々と姿を消しているのは記憶に新しい。そして、エンターティメンとして華やかなスターを揃え、採算のとれる大劇場に観客を押し込み観劇料の階層化が図られる。つまり、金のある者は良い場所で、無い者は三階席で…やめよう…三浦氏にならって…
 今回、彼は大劇場に臨んだが、この劇場が持っている空間がしっかりと生かされており、演劇表現としては成功していたと思う。たしかに思ったよりも観客は満席ではなかったが、観客達の反応は二極化していた。圧倒されて前のめりに観ている者とそうではない者。そうではない者は台詞劇に馴染み過ぎて他の表現にたいし拒絶反応を示しているのか、はたまた、好みの問題であって、前のめりの観客こそが、三浦氏の真の意味での理解者であろうと思う。
 ところで、この少し前にSPACの「ラーマーヤナ」と東京ノービィ・レパートリーシアターの「古事記」(これも台詞劇ではなかった。)を観劇して感じたのは、確実に新しい演劇の風が吹き始めたということだ。祝福あれ!!
「古事記」の観劇感想はシアターΧ批評通信に掲載しているのでご一読いただければ嬉しいです。


horikawa_g at 13:48コメント(0)トラックバック(0) 

2014年10月07日

今月の4日に、和歌山富野師匠の八十八歳、長唄米寿の会に行ってきました。とてもとても声に艶があって年齢を感じさせません。やはり積み重ねだとつくづく思います。身体や声が出来ているからこそ。現役の、和歌山富野、なのだと思いました。
池田先生のお話も、やっぱり面白かったですね。紋付袴がとってもお似合いでした。
老人は年齢じゃないですね。若くても年寄りはいるし、老人とはいえない方々もいらっしゃいます。
22日は望月太左衛師匠の鼓楽庵の演奏会に出演です。
もちろん、行きます!!  これは 私のお仕事ですし…うふふ…


horikawa_g at 20:26コメント(0)トラックバック(0) 
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