2010年04月

2010年04月23日

前回の続き…。能では、平家物語の藤戸からヒントを得て世阿弥が藤戸を書いたといわれています。
ここでは、盛綱が殺した漁師が犠牲となって不条理にも殺されてしまった嘆きを描いています。そして、漁師を手厚く弔うことで恨みも消えて盛綱が救われる物語になっています。
当時の時代背景は、天皇の後継争いや貴族達の権力争いで戦が続き、人々は疲弊していました。また、武士達も戦とはいえ人を殺して手柄を立てるという修羅道にいるわけですから、仏教の教えであるあの世では地獄に落ちることなく極楽浄土へ救われたいと願っていました。
          能の「藤戸」のストーリー
 児島の地の領主となった盛綱は、殺された漁師の母親からせめて犠牲にされた息子を弔って欲しいと責められ哀願されます。盛綱はこれも前世からの因果だから諦めて不憫だけれど恨みを晴らすように諭します。そして、手厚く管弦講によって弔い、残された妻子も世に立てると約束します。ここでの盛綱も自分の行いが罪深いことだとは思っていません。武士は命のやりとりですから、戦のうえのことだから仕方が無いことだったといいます。やがて、盛綱が弔っていると殺された漁師が亡霊となって登場します。弔ってもらうのは有り難いことだけれど手柄をたてさせてやった恩を仇で返され殺されてしまった妄執は晴れないと盛綱に恨みごとをいいます。とはいいながら、弔いを受けたことでみ仏の仏縁を得たので海の底で悪霊にならずに救われることができたと漁師の亡霊は消えます。ということで能は終わります。      唄浄瑠璃狂言の「藤戸」のことは次回…


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2010年04月17日

いよいよ次回公演「藤戸」が2011年3月16日17日に上演することに決まりました。
「藤戸」は、平家物語第百句と能をベースにして唄浄瑠璃狂言として書きました。
というわけで、平家物語の「藤戸」のことを少々…
平家物語では佐々木盛綱が藤戸の海峡を渡って平家を打ち破り、児島の地を賜る手柄を立てたと武士の功名譚として書かれています。児島に陣をひいている平家が舟を全て持ち去っていましたから、舟を持たない源氏がこの藤戸の海峡を渡ることは難しい状況でした。そうした中で、盛綱は近在の漁師から馬で藤戸海峡を渡ることができる浅瀬を聞きだしました。そして、その漁師を口封じに殺し、先陣の手柄をたて、報償として児島の地を賜ったのです。
平家のことを語っているのが平家物語ですから源氏のことは簡単に語られているだけなので、この時の状況をもう少し
盛綱は源頼朝の家来として三人の兄弟とともに仕えていました。佐々木家の三男なので佐々木三郎盛綱といいます。源氏は平家を壇ノ浦で滅ぼしていますが、資料を調べてみると、この藤戸の戦いが源氏が平氏を滅ぼすターニングポイントになったと私は思っています。というのも、義経の屋島は有名なのですが、藤戸の戦は屋島での戦の前のことで、頼朝の弟であり義経の兄である源範頼が源氏の主力部隊を率いて藤戸海峡を挟んで児島の平家と対峙していたからです。この頃は、平家にとって瀬戸内海は一族の支配地ですから味方の豪族が多く居ましたし、態勢を見極めようとしてまだはっきりと態度を示さない豪族も多かったのです。それに比して頼朝の地盤は関東です。関東から都、瀬戸内へと攻め上り平家を追いつめていました。当然、長戦に疲れ、物資も底を尽き始めててましたから、ここで一挙に態勢を源氏に固めなければなりませんでした。
藤戸の戦に勝ったことで平家を見限り裏切る豪族や源氏に味方する豪族が増えはじめ、源氏の勝利が決定づけられたといっても過言ではないと思います。義経が平家の主力部隊を追いつめ滅ぼしてはいますが、平家が追いつめられたのも味方になってくれる豪族が少なくなっていたからです。そう考えると、藤戸での出来事は、なかなか見過ごしにはできない事件です。つづく…

horikawa_g at 23:19コメント(0)トラックバック(0) 

2010年04月06日

寺子屋での子殺しが理解に苦しむという話があって、これは正岡の時も聞かれるのだけれど、たまたま先日も知人から同じことを言われたので、ちょっとお伝えしておこうと思う。      やっぱり現代人には理解に苦しむことらしい。というか、現代の価値観からいえば、親が主家存続の為とはいえ自分の子を殺して犠牲にすることは理解に苦しんで当然なのだけど…。
ではなぜ、こんなことが?   
家という価値観が成立するのは鎌倉幕府が成立する辺りなので、つまり、武士の価値観ということになる。武士は命をかけて戦うことで土地の安堵、つまり生活が保証された。信長が登場するまでは専門の戦闘集団はいなかったので、この頃の主従関係は比較的ゆるいというか、互いに協力しあう関係の方が強い。    戦国になって武士は専門化したわけだけど、就職した家、つまり主家が力を持ち存続しなければ滅亡するのだから主家を守る意識は強くなった。主家が繁栄すれば自分たちの一族も力を持ち存続することになるのだから、やっぱり多少の犠牲を払っても頑張ることになる。 
子供の犠牲は多少なんかじゃない! はい、その通りです。   ただ、この時代は来世というものが信じられていたし、家は何世代も続いていく存在だけれど、人の一生はたかだか五十年…なのだ。つまり、人は一代、名は末代まで。こうした価値観のもとでは名を残す為、家を残す為には命を惜しんでは立派な働きはできない。自分や子が犠牲になることは、あっぱれなことなのだ。そこまで忠義を尽くす。だからこそ主家と一体になった絆が生まれ、自分が所属する一族は繁栄して名誉が語り継がれる。    私達が現代のように個々の幸せこそが大切だという時代に産まれて幸せだなぁ…と思うように、当時の下々の人達だってやっぱり個人の幸せを大切にして生きていた。だから、「せまじきものは宮仕え」という源蔵の言葉に同情して涙したのだ。下々の勤め人だって、子供までは犠牲にしなくても、いろいろ苦労しているから源蔵の嘆きが理解できたわけ。
自己犠牲の最大の象徴として子の犠牲がある。これって、今もある戦争に子供や夫を行かせるのと同だと私は思うのだけれど、ちょっと飛躍し過ぎかしら…


horikawa_g at 12:05コメント(0)トラックバック(0) 
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