2009年02月
2009年02月25日
友人からメールが届いた。国立国語研究所の廃止に反対する嘆願書書名の依頼だ。行政改革の一環で、こうした研究機関は地道で利益を産まない。緊縮財政の中では無駄と位置づけられてしまうのだ。ところで、つい最近漢字検定センターの騒ぎがあった。公益法人の認可を受けていたのにかかわらず相当に利益を得ていたのだ。この検定センターは金儲け主義者が始めた事業がたまたま社会的な意味を持ち、公益法人システムが悪用されてしまったと思うが、なかなか同じ土俵で論じられないことだけれど、日本語という日本人の根幹にかかわることだし、身近な問題なので気になった。(嘆願書について詳しいことを知りたい方は「日本語教育の将来を考える有志の会」に問い合わせしてくださいませ。)日本語の文化は多様だ。能、狂言、歌舞伎など、現在でも古語が使われて演じられている。昭和初期においてさえ、本を読むと解説が必要な用語が出てくる。言葉の種類が豊富なのは、その文化水準の高さを示してもいる。近年の文化水準が低いと嘆く方々の危機感から漢字検定がブームにもなったのだと思う。つまり、言葉は時代によって動くもので、研究をしていく必要があって、そうでなければ言葉は失なわれてしまうということだ。私などには切実な問題です。
2009年02月15日
ある人がお金よりも自分の仕事を大事にしたいと云っていた。私などはいい仕事をするために沢山お金が欲しいなぁと夢想しておりますが…ふと、なにかで読んだ村上氏の言葉が重なった。仕事とは、かかげた目標を達成することであり、貨幣経済の中では達成した見返りとしての価値がお金である。だから品格や美しさとは関係ないものだ。お金の価値に変わる価値をみいだせるか…そんな内容だった気がする。なるほどと思う。仕事の対価として貨幣があると私も思う。では、その対価を計る基準とはなんだろう? 努力しただけではお金にならない。仕事の需要が必要だ。仕事の価値を高めなければ需要は増えない。競争原理だ。ところで、人間は平等な生き物だろうか? 才能の豊かな者、努力してもたかがしれている者もいる。もってうまれた器というやつだ。人間の器のサイズや価値というものは誰が決めるのだろう…? まあそれはともかく、競争社会では器に従ってしかお金は得られないということになる。理屈ではそうなる。で、それぞれの器が努力した結果、大きな対価を得たものは子孫に残したいと考え、その人間が亡くなった後も対価が入るシステムを作った。つまり既得権というものだ。ということは、仕事に対する正当な対価を得られない不平等な社会だということになる…赤字を繰り返す自転車操業をしていては仕事にならない。いや、仕事といえないのだ。しかし、多くの場合、そうした労働に見合わない仕事に支えられて社会は動いている。 仕事の概念はなかなか難しい…。
2009年02月12日
邦楽と舞踊の2月号に朝吹師の劇評が掲載されました。
師に恥ずかしくないようにこれからも真っ直ぐに進んで行きたいと思います。
以下に全文を掲載しています。
「和もの」のオフ・ブロードウェイ
梅座事務所とシアターXの提携公演で、歌舞伎の台本を手がける「作者巴」(訂正・作者部屋」)に所属する堀川登志子が台本と演出を担当。
作者堀川はこの狂言を歌舞伎の手法を使った新作芝居として「唄浄瑠璃狂言」と命名している。また「筋立てというよりも心の様といったものに焦点をあて、序破急構成で書き上げた」とも云っている。
時は江戸、両国の糸問屋の息子、与之介と養女、おこんの悲恋物語「綾描恋糸染」ストーリーは作者の云う通りシンプルなものだが、堀川は歌詞に江戸組紐の作業工程を織り込むなどして曲作りに力を入れている。作曲は黒御簾音楽の一人者である杵屋佐之忠、振付は歌舞伎役者の嵐橘三郎。美術に小田切よう子、照明は清水義幸、舞台監督佐藤大幸。
演奏は佐之忠社中の杵屋佐之義他、囃子担当は望月太喜之丞、出演俳優は遠藤かがり、堀内紀宏他
幕の無い舞台空間を、照明が手際よく展開させていく、大きな糸車や糸束を使った小田切の美術は斬新である。三人の女をそれぞれ、平紐、丸紐、角紐に見立てて狂言廻しの役をさせたのは面白い。
舞台の奥まった処には黒御簾仕立ての唄、三味線、囃子連中が控えていて、粒立ちのよい手慣れた演奏で、この狂言の時空を縁取りしていく。
このようにきわめて上質な゛しつらえ゛の中で物語が進行していくわけだが、主役二人の演技にその効果が生かされなかったのは残念であった。この狂言は虚と実が交差し、陰影のある詩情豊かな舞台である。それ故、こうしたリアルな演技よりもむしろ、型に嵌った所作の方が脚本も生きたのではないかと思う。
しかし、このような大作の台本を書き、公演を実現する堀川の意欲と実行力には感嘆する。また、二日間にわたり、計四回の公演を打つエネルギーとその集客力は見事と云いた い。
三味線音楽をベースにした演劇が不振の現状にあって、このようなユニークな試みは貴重である。商業演劇と一線を画した、いわゆるオフ・ブロードウェイ的な活動に喝采を送りたい。
ありがとうございました。m(_ _)m
師に恥ずかしくないようにこれからも真っ直ぐに進んで行きたいと思います。
以下に全文を掲載しています。
「和もの」のオフ・ブロードウェイ
梅座事務所とシアターXの提携公演で、歌舞伎の台本を手がける「作者巴」(訂正・作者部屋」)に所属する堀川登志子が台本と演出を担当。
作者堀川はこの狂言を歌舞伎の手法を使った新作芝居として「唄浄瑠璃狂言」と命名している。また「筋立てというよりも心の様といったものに焦点をあて、序破急構成で書き上げた」とも云っている。
時は江戸、両国の糸問屋の息子、与之介と養女、おこんの悲恋物語「綾描恋糸染」ストーリーは作者の云う通りシンプルなものだが、堀川は歌詞に江戸組紐の作業工程を織り込むなどして曲作りに力を入れている。作曲は黒御簾音楽の一人者である杵屋佐之忠、振付は歌舞伎役者の嵐橘三郎。美術に小田切よう子、照明は清水義幸、舞台監督佐藤大幸。
演奏は佐之忠社中の杵屋佐之義他、囃子担当は望月太喜之丞、出演俳優は遠藤かがり、堀内紀宏他
幕の無い舞台空間を、照明が手際よく展開させていく、大きな糸車や糸束を使った小田切の美術は斬新である。三人の女をそれぞれ、平紐、丸紐、角紐に見立てて狂言廻しの役をさせたのは面白い。
舞台の奥まった処には黒御簾仕立ての唄、三味線、囃子連中が控えていて、粒立ちのよい手慣れた演奏で、この狂言の時空を縁取りしていく。
このようにきわめて上質な゛しつらえ゛の中で物語が進行していくわけだが、主役二人の演技にその効果が生かされなかったのは残念であった。この狂言は虚と実が交差し、陰影のある詩情豊かな舞台である。それ故、こうしたリアルな演技よりもむしろ、型に嵌った所作の方が脚本も生きたのではないかと思う。
しかし、このような大作の台本を書き、公演を実現する堀川の意欲と実行力には感嘆する。また、二日間にわたり、計四回の公演を打つエネルギーとその集客力は見事と云いた い。
三味線音楽をベースにした演劇が不振の現状にあって、このようなユニークな試みは貴重である。商業演劇と一線を画した、いわゆるオフ・ブロードウェイ的な活動に喝采を送りたい。
ありがとうございました。m(_ _)m