2009年01月

2009年01月29日

昨日、久しぶりに気のおけない仲間と飲んだ。回りに気をつかい過ぎる。もっと我儘な方がいいと云われた。自分の作品を表現するのだから自分の作品に対して、誰にも口を挟ませない方が良い。それで良くなるか悪くなるか、全てが自分自身だろうというのだ。私は思うに、これが絵や小説なら自己完結でいいと思う。だが、芝居はやっぱり総合芸術だと思うのだ。誰とタグを組むか、それが演出の責任だ。自分が表現したいと思っている世界と合っているかどうかは重要な問題だからだ。誰でもいいわけではない。確かにタグを組む相手を手足のように使い自己表現をするタイプもいるが、私は違うやり方だ。そういえば、前にも友達に似たような事を云われた。でなければ軽くみられるというのだ。確かに、この世界に身を置いていると弱肉強食の世界だから気を遣いすぎるとすぐ足許をみられるということはある。しかし、自分よりもキャリアがある方達と仕事をする時、信頼をいただくまでには時間がかかるものだ。相手は当然、弱輩だからとなめてかかるし、だからこちらのやり方に口も挟む。それは当たり前のことだと思う。しかし、どういう理念で、どういう形で仕事をしているか、いろいろやっていくうちに自ずと自分の位置が定まってくるものだし、信頼もそうした中から生まれてくるものだ。天才ではない限り、何事もすぐに為せるものではない。確かに気を遣うのは自分に自信がないからかもしれないが、相手の言葉を聞いた時、なぜ相手がそう云うのか、考える必要がある。その方がいいと判断したら調整もする。その調整が間違っていたら、それはそのように判断した自分がまだ未熟だということだ。最終的に全幅の信頼をいただいて仕事ができるように誰もが認めるだけの内容と強い意志がなければ叶わない。やはり、自分を見失わずにどこまでやれるかなのだと思う。私はまだ、発展途上。発展途上ということは未来があるということ。馬も千里なら牛も千里。いい言葉でしょう…えっ? 行き着かないうちに頓死する? ハハハ…それも人生でござる。


horikawa_g at 12:56コメント(0)トラックバック(0) 

2009年01月26日

今朝電話があった。前に先輩の顔をたててした仕事で着付けの仕事である。再演が決まったのでまた着付けをお願いしたいという。着付師が本業ではないし地方公演もあるのでお断りした。先輩の仕事なら引き受けたかもしれないが、もう一切タッチしていないという。こういう仕事は顔の繋がりが大切だとつくづく感じる。お金は欲しい。喉から手が出るほど欲しい…。しかし今、自分にとって何が大切か、石にかじりついても作家や演出家として仕事にありつくことなのだ。頑張らねば…こればかりは他力とはいかない?

horikawa_g at 20:01コメント(0)トラックバック(0) 
私の芝居は邦楽がとても大事な要素なので、音楽を楽しめたという褒め言葉は最高に嬉しい褒め言葉だ。始めて聞いたがまた聞きたい。習いたくなったとおっしゃった方もいらっしゃった。プロが聞いても楽しめて、素人が聞いても楽しめる。これこそが本物だと思う。自画自賛はお許し願いたい。なにしろ作曲しているのは佐之忠師匠である。黒御簾の附師としてこれだけの方はそういらっしゃらないのだ。指を折ってごらんなさい。どれだけ凄い方なのかお解りになろうというもの。えっ? ええそうです。私の拙い作品を皆様に自信をもってお見せできるのも、佐之忠師匠あってのこと。そして、望月太喜之丞師の絶妙な鳴物の組合せと演奏。尺八の松本浩和さんに佐之義さん佐之萌さんの三味線と小与ひで師匠の長唄は惚れ惚れします。なんといっても芝居が格段に違ってきます。世間には、これだけの仕事をしている方達が他にもいて、しのぎを削りながらお客様にお見せしているわけです。だから、褒められるということは世間に認められたということで、やっぱり凄いことなんです。邦楽を演奏している皆さんは半端な気持ちでは太刀打ちできない世界で生きています。ね〜凄いでしょ。役者さんも同じです。この素晴らしい邦楽と素敵な舞台美術に負けないだけの芝居をしなければならないわけです。舞台では力の差がすぐに分かりますから厳しい世界です。ファンを獲得しなければなりませんしね。私は兜を脱いで、所詮、己の才能などたかが知れていると悟りました。自分が一番と思っているよりはいいでしょう? え〜、だからってそう簡単なものでもありませんよ。やっぱりプレッシャーはあります。皆さんに恥ずかしくない脚本を書き、演出をしなければならないと自分を奮い立たせて頑張らなければ、誰も協力なんてしてくれませんからね。頑張れるのはやっぱり皆様のお陰です。ようするに、一番、出来が悪いのは自分だからって諦めることはないわけで、私の場合は、現世における他力本願といったところでしょうか…あっ、私、どこの宗派にも教団にも所属していないので誤解のないように…あくまでも他力ってことで…阿弥陀様の他は他力はない…ってす、すみません! 

horikawa_g at 19:45コメント(0)トラックバック(0) 

2009年01月23日

昨年、紐を使った舞台で天と地の狭間の空気間を出して欲しいと美術プランをお願いしていた。なかなかデザインをいただけずにやきもきしていたことを思い出す。美術が秀逸との劇評は、ことさらに嬉しい。実は私自身は糸で駕籠をイメージした舞台を思い描いていた。そんなものは所詮知れている。出来上がった舞台を見て私は彼女に抱きついた。イメージ以上の舞台になっていたからだ。お金が無いからといってちゃちな舞台は創りたくないと彼女は言い。私はお金がないのだからその分を工夫して補うのが、予算で引き受けたプロの仕事だろうと内心で毒ついていた。結果、予算は大幅にオーバーはしたのだが、それでもかなりぎゅうぎゅうに予算を切りつめて工夫して頑張ってくれていた。それが分かっていたから、かなり苦しかったが彼女の負担にならないように支払った。なにしろ、最初からかなり厳しい予算でお願いしていたのだから彼女の云うのも無理はないのだ。だが、この業界は人の金だと思ってかなりいいかげんな奴もいるのだ。そういうわけで、赤字をなんとかしようと頭を抱えている私としては辛いところだ。かくして、美術は褒められた。もちろん皆さんからの評価が高いのは彼女の手柄であるが、その美術制作をもくもくと手伝ってくれた舞台監督の佐藤大幸さんやスタッフ達の手柄でもある。なにしろ膨大な紐を現場処理で作ってくれたのは彼等なのだ。なかなか劇評に名前が乗ることがない彼等だが、舞台はこうして出来上がるのである。資金不足にもかかわらず、手抜きをせず、いい作品を作ってくれた皆に感謝!!

horikawa_g at 18:43コメント(0)トラックバック(0) 
演劇の月刊誌「テアトロ」に載りました。中本信幸氏の劇評です。
「綾描恋糸染」脚本・演出 堀川登志子は義太夫歌舞伎台本を書き直した唄浄瑠璃狂言だ。
杵屋佐之忠の音楽、吉住小与ひでの長唄、杵屋佐之義、杵屋佐之萌の三味線は楽しめた。
江戸時代の両国橋の近く(シアターXのあたりか?)の糸問屋の娘おこん(遠藤かがり)は貰い子で、総領息子の与之助(堀内紀宏)と相思相愛の仲。近親相姦の禁忌は、けっして人類普遍のものではないが、今日までの犯さざる社会規範だ。この運命に抗して戦う西洋演劇の登場人物と違って、養父から真実を知らされておこんは嘆きもだえる。運命の糸、地獄の糸、蜘蛛の糸にからめとられる人々の様態、慈悲と無慈悲の混在…。紐を点々と天井からたらしたりして、組紐作りの工程のイメージで芝居の狙いを伝える美術(小田切ようこ)が秀逸。坂浦洋子、小池妙佳、田村順子(11月11日、シアターX)
全文掲載しました。ありがとうございました!!!



horikawa_g at 17:49コメント(0)トラックバック(0) 

2009年01月22日

夫の僅かな出世を頼りに男にすがって生きる女はつまらない。宮仕えをしていると、高貴な立場の人々ばかりではなく、下々の御厠人といった身分の者に至るまで逢うことになり、なるほど人づれはするが、何も知らないよりはましだ。これ、枕草子の中で清少納言が云った言葉だ。遥か一千年以上前に語られていた言葉なのだ。今の世の中、箱入りの人づれしていない奥ゆかしい女など皆無に等しいだろう。それでいて、未だに憧れの目で見られるのはどうしたわけか? しかも、男に縋って生きている女性が多いのはなぜだろう…。そうそう、昔の言葉といえば、徒然草の中に地位や財産を求めてゆったりと過ごす暇もなく、一生あくせく苦しみつづけるのは愚かだと書いてあるのだが、人は学ばなかったらしい。拝金主義とマスコミが騒いでいたのはついこの間のことだ。兼好は云う。衣食住と医が備わっていれば豊かであり、それを手に入れられない者は貧しく、それ以上を望むのは贅沢だと。どうも人は、衣食住を手に入れ、医を手に入れ、更に贅沢という人参を鼻先にぶら下げて走る馬となり果てるものらしい。あくせくしてみたところで栄華というものは長続きのするものではないと長明も同じようなことを書いていた。彼は源平の世に生きていたから直ぐ側で栄華盛衰を見ていたわけだ。そして、人の世は住み難く、貧しければ権門家や裕福な者に気を遣って生きなければならないと世の中を厭い、隠棲して方丈記を書いた。だからなのか、人参をぶら下げて走らされている世のサラリーマンは方丈記の生き方に憧れるらしい。それならそう生きればいいのにと思うのだが、普通の人間はなかなか煩悩を捨てきれないものなんだよなぁ…。私はどうかというと、衣食住に贅沢を求める欲はないのだが、まだまだ隠棲する境地にはならない…いや、なれない。煩悩という魔物に振り回されながらあくせく生きている方が好きらしい。隠棲など引きこもりに似ていてつまらない生き方のように思えるし、命を燃焼させる煌めきを感じないからだ。要はバランスなのだと思う。私は清少納言の生き方が好きだ。彼女は中宮の定子に仕えたが、定子は一条天皇の中宮とはいえ藤原道真との政争に負けた道隆を父に伊周を兄に持つ立場にあった。その定子に仕える生活の中で、彼女は何を見て、何を感じたのか。興味はつきない。彼女を材料に書いてみたい…資料を読んでいて、またまた横道にそれてしまった。これも煩悩か…う〜ん煩悩、煩悩…。

horikawa_g at 14:50コメント(0)トラックバック(0) 

2009年01月21日

早くから寝て、2時に起きて、やっぱり見てしまいました。もちろん、アメリカ大統領の就任挨拶です! 私はブッシュ大統領が嫌いだから好戦的なアメリカに対して腹も立てていたが、黒人であるオバマ氏が大統領に就任したことはアメリカの精神的成長を感じたし、オバマ大統領は演説で民族、国との友好関係や核にも言及していた。これはとっても大切なことだ。考え方には好意を感じる。世界的にも軍縮していく道筋になるだろうと思う。戦争は利権と貧困と差別から生まれる。だから、世界をリードする立場にある者が、どのような考え方を持っているかその影響力は計り知れない。オバマ大統領の演説でのビジョンはとても見識があり、将来を見据えて大きく舵取りをしていこうという意志を感じた。それに、オバマ大統領は日本の環境技術を見据えているような気がする。というのも、日本は世界的に見ても非常に環境意識は高い。環境に配慮した技術も進んでいる。環境関連に経済の主体をシフトしていこうとしているオバマ大統領の考えからいっても、日本はこれからアメリカと環境関連の協力関係を強化していくことは大事だろうと思った。これは日本の内需にも繋がるだろうと思う。確かに経済は、現実として短期的には経済回復は見込めないと思うが、長期的なビジョンは大切なことだ。それに向かってたゆまぬ努力をしていくことは、いつかそれが現実のものとなり、オバマ氏が云うように将来を担う子供達に残すべき役目なのだ。目の前の餌が乏しくなって、空腹を抱えている者がどこまで我慢できるか、経済で世の中が動いている以上、既得権のある資本家の貪欲な要求に対してオバマ大統領がどこまで対抗して環境と市場原理の舵取りができるか、目が離せない。それにしても、我が国の総理大臣の情けなさよ…バラマキ2兆円の発想の貧弱さには泣かされる。それを支持している国会議員の見識の低さというか、矜持というものが無いのかねぇ…そうそう、海賊の問題も重要なことで、イラクへの海外派兵の時からなし崩しに派兵への憲法改正が始まっている。防衛庁が防衛省に格上げになった時から嫌な感じがしていた。軍のコントロール機関は立場を弱くしておく方がいいのだ。見識者がいるうちはいいが、もしも…ということが無いとはいえないのが歴史が示している。平和呆けの日本、その恐ろしさを忘れつつあるのではないか。大義名分はいつでもあるのだ。しかし、それゆえにどれほどの血が流されてきたか考えて欲しい。いっそのこと、2兆円で海賊達に商売替えの為の経済基盤支援をした方がよほど有益?  ついつい、オバマ大統領就任が嬉しくて書いてしまったが、日本の政治が誤らないように、日本の見識のある政治家に投票しよう!! えっ? いない? う〜ん。それが問題か…
 

horikawa_g at 19:08コメント(0)トラックバック(0) 

2009年01月20日

像引の紋のことからちょっと思い出して確認してみると高師直が着ている礼服の大紋五三桐にやはり紫の太い一文字、こちらは縦に入っていた。そういえば瀬尾や丹左衛門の半素袍の大紋にも縦に入っていたが…縦と横の違いがあるにしても、どのような意味があるのだろうか。暫くの素袍の大紋などにはこの一文字はないことからみても、なにか曰わくがありそうだ。今までは、そういうものと思い納得して、あまり気にも留めていなかったから考えもしなかったが、、気になり出すと、こんなことがいつまでも気になるものだ。やらなければならない事があるというのに…道草の日である…

horikawa_g at 16:39コメント(0)トラックバック(0) 
猫の手倶楽部というのがあった。今もあるのだろうか…芝居では制作が大変で、人手は欲しいが金がない。協力してくれる人を探すことになる。むしがいいと思われるかもしれないが、同志がいなければやれない世界ではある。で、あ〜あと、宝くじにあたる夢をみる。

horikawa_g at 15:15コメント(0)トラックバック(0) 
数年前、国立劇場の売店で売っていた浮世絵(豊国)葉書に像引があった。それからずっと、どんな芝居か観てみたいと思っていた。それが叶ったのは幸運だった。なにしろ、めったにやらない演目なのだ。大正二年に復活上演され、昭和五十七年の公演以来ということになるらしい。しかも、団十郎丈の病後の復帰舞台。喜びもひとしおなのである。歌舞伎十八番は、なんといっても団十郎丈の大きさ、華があってこそなのだ。あのりっぱな顔と大きな目で華やかな舞台がいっそう華やかになる。そして、私にとって十一代目団十郎の優しい眼差し懐の厚さを感じさせてくれる芸風は、なにものにも代え難いものだ。勧進帳、助六、毛抜、どれも素晴らしかったが、像引は特に忘れられない舞台となった。     
ところで、この像引での衣裳なのだが、紋に一文字が入っていた。浮世絵をみると、やはり誰もが知る団十郎家の紋、三升である。昭和五十七年の舞台写真は紫の一文字の入った三升の紋になっているが、役者は尾上松緑なので団十郎家に遠慮したものであろうか。この三升に大きな一文字が入っている紋は初世市川団蔵のもので、二代目団十郎と不仲になったのがきっかけで、三升に大きく一文字を入れたと「三都役者世々の接木」に書かれていると初代清信の浮世絵の解説にあった。十八年後に団十郎と團蔵が共演して和解し、もとの三升に紋を戻したとある。そうであるならば、宗家が演じているのにこれはどうしたわけか? なにか理由があるのだろうか…そういえば、他にも大きな一文字を入れた紋を見たことがるような気が…誰か詳しい方、お教えくださいませ。 


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